屠場

筑豊やチェルノブイリの記録を発信してきた本橋成一が、故なき職業差別と身分差別に抗いながら、大阪・松原の屠場でいのちと向き合う人びとを追った、渾身のドキュメント。

子供の頃、とある同級生がいて、その親がお肉屋さんで。 でも小売業ではなくて、食肉処理場なんだと。 食肉処理場なんて言葉は当時はあったかどうかわからず、屠畜場なんて言われてて、屠殺場だなんて言われてて。

ただ、「処理場」ではなくて、「処理」された食肉を卸すところなんだとかいう説明がなされたものの、問題はそこじゃないでしょ?っていう気持ちが今でも残ってて、要するに部落差別的な事を話題に挙げたいんでしょ?と、じゃぁうちは袋物加工業だけど、なにか?的な風に話が進んでしまいます。

牛の等級じゃねぇんだぞ、って。

ドキュメントというか写真集、コントラストの強いモノクロ写真が占められているこの書籍は、圧倒的な死に満ち満ちています。 牛を屠って食肉にする。 たったそれだけの事であります。 その「たったそれだけの事」が否定されたら成り立たない業種なのであります。 この処理の後、卸し卸されスーパーだの肉屋だのに並ばれ売られ、この牛肉や内蔵は調理されて食卓に並ぶのであります。

自分で牛を飼ってて、これ自ら屠らない限り、誰かにそれを委ねなくちゃならないんですよね。 そこを無視してなにが穢れだって話ですよ。 嫌だったら食べなければいいんですし、それこそ植物だって命があるんですんで野菜も食べるな、お前ら塩舐めて生きてろって事ですよ。

穢れというのは価値観という広義のなかに絡まれた概念でしかなくて、もしこの世に獣肉を食べるという風習がなく、それ自体が穢れとみなされ、食べられるのは人肉だけだとしたら、迷うこと無くそれに従うんでしょう。

それが価値観であり、倫理なんかお呼びじゃないところだと私は思うなぁ。 つか、なにが倫理だよ、って牛は思うぜ?